昭和56年3月8日 朝の御理解               御理解 第76節                      「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか、牛馬は我子が水に落ちて居ても助ける事が出来ぬ、人間が見ると助けてやる人間は、病気災難の時神に助けて貰ふのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」


 助けるとか助かるとか申しますが、その助かるにも素直な心がいるし、又このような御教えを頂いて助かるという事においても、素直に御話が出来素直にお導きが出ける。どちらにしても素直に受けて、素直に伝えるという事が大切です。信心にいわゆる素直心というのが一番大切だと思うんですけれども、私共人間が教えを頂いても受けても、なかなかもって教えどおりの生き方が出けません。振り返ってみるとあそこもお粗末であっただろう、ここも不行届きであった、御無礼であったと思う事ばっかり多いのですけれども、そこん所を神様は、見なおし聞きなおし、しておかげを下さる。その見なおし聞きなおししてから神様が、おかげを下さるという事がなら、その氏子のどこにまあそれを助けて下さるという、神様の心が動くかというとやっぱり素直心だと思うですね。
 〃素直心の一つにて雲の上までも上る道あり〃と仰せられる。すなおな心、すなおに見る、すなおに聞く。どうぞだからすなおにならせて下さい。和賀心と申しますけれども、その和賀心もやっぱり素直という心が、根本ではないかと思います。もう本当にその辺の所に何んというでせうか。ハイと受けてハイと流していけれる信心。先達って十四日会が、泉尾教会でございました。
 ここから竹内先生と佐田英記先生がまいりましたが、会が終った後に、合楽の先生方どうぞと云うて御自分の居間に招かれて、そしていろいろまあ信心話をいっぱいなさった後に、今度東南アジアの方に自分は行く事になっておる。それで合楽の御信者の中に、英語の堪能な方が居られるなら、一緒に来て頂きたいんだけどいう話があった。それで佐田先生はすぐ安武先生がああして、英語の先生をなさっておられますから話された。たら親先生が行けとおっしゃるなら、まあいつでもまいりますとこういう返事、ここにお伺ひになったから、そりぁまあ泉尾の先生三宅先生のお伴して、お道の信心のそういう事でもやらせて頂くなら有難い事だから、やらせて頂かれたらいいですねと、それからハイというてすぐ素直にその事をすぐに佐田先生があちらに電話をかけた。所がすぐあちらから速達でその手紙が来た。
 昨日のお届けです。あんなに云ひよったけれども、その英語の出来る人というのは、日本人の方でなくて現地の人じぁなからにぁいかんようだから、まあというようなお断りの電話だった。聞いておってからね。何かちょっと利用されたような感じがせんでもないけれども、その一貫したそれだけの事なんですけれども、そこにすなおに見・すなおに聞き・という所ですね、こちらの信心が非常にその事によって一段とこう何か確かな、たしかめていけれるような感じがしますね。素直に見る素直に聞くのですから。いろいろ泉尾の先生には、いろんなやはりまあ合楽で評判が、合楽の評判がよくないようにいろんな取り沙汰されるような問題点が、いくらもあるようですけれども、やっぱ人が云うようにそんな所があるのかなぁと、いうふうにも思へん節もない事はない。
 けれども問題はこちらは素直に聞いて来ておる、素直に受けて来ておる、そしてそれを断わられたけんで、折角こっちは行く気になっとるとにのちいうごたるもんでもなくて、素直に受けて素直にさぁっとこう流していけれる心の状態、そういうようなすべてに、そういう受け方が出ける事が有難い。
 今日今朝からおしらせを頂きますのに、あの竹輪かまぼこというあの竹輪をね頂いたんです。
 だからいつか御理解を頂いた、竹輪というのは、竹という字を、竹を書いて(竹O)こうOを書く輪ですね、そして〃ちくわ〃と読ませる。竹といや、ここでは素直といわれる、だからそういう素直心にです、出けん所もあろう、見直し・聞き直しをもして頂かんならか所が、いっぱいなのだけれども、その心がすなおである限り神様がね、あれも出けんこれも出けんけれども、その素直心に免じておかげを下さる。お徳を下さる。いわゆるすなお心の一つにて雲の上まで上る道が手居る出けてくる。その道というのはどういう道なのか、だからどうでも素直にならせて下さい。
 昨日・一昨日でしたか、いま井上太郎先生自宅の方へ今帰って自宅から毎朝、あのようにお母さんと二人で朝参りが出けております。ここに居る時は朝参りが出けるようになった。
 昨日・一昨日のお届けでしたたか、初めて親先生のお話がまあ白紙の状態で頂けれるようになりました。ああおかげ頂いたねと申しました事でしたけどね。この人は大変読書が好きで、沢山な難しい本を読んでいるわけです。
 ですから私共の無学な者の話がそのままは、入っていかないむきがあったんですね。
 ですからそういうのを学身を喰うというのは、そういう所もあろうと思うですね。いうならばあのもう自分のまま勉強した事は一ぺん白紙にしてしまってお話を頂く、そこから有難いいわゆる御参りの態度姿勢までが、私から見ると変わったように感じられる。
 ですからね素直心というのは、そういうように自分というものを空しゅうするというか、又は白紙にして御教えを頂く、そういう心がすなおに頂くという事じぁないかと思うんです。
 昨日直方の山本さんが毎日あのようにして日参されます。もうそれこそ降っても照ってもこりぁもう絶対。私がここを八時半に下ってそして、お茶の御用をもうこりぁ絶対それだけは、御用としてなさっておられる。まあ本当にあの何んかいうでせうか、おかげも受けられますしね、その内容がいよいよ充実していく。御霊様を大切にされるという事もこの人、合楽にはそういう方達がだんだん出来てきた。もう御先祖の御霊様の帰幽日々々には、必ずその御霊様のまあお好きであった、甘な・辛らなを用意して玉串を上げられるといったような方が、あの沢山、だんだん沢山というが、大分出けてまいりました。
 しかしすばらしいですね。お先祖を大切にするという事は、しかも合楽では絶対親先生のお取次を頂いて霊への、まあいうなら供養させてもらう事は、霊へ通ずるんだ通うんだという実感があるから出けるんです。ここへ例えば川上さんなんかもそうです。月の中にやっぱ何回かあるわけですね、その祥月命日じぁなくてても、その帰幽日々にその玉串を奉らせてもらえるそういう信心なんです。けども山本さん、おじいさんの昨日は帰幽日でしたから、おじいさんはお酒が大変おすきであったかと云うので、お酒のお供えをなさって今日はじいの帰幽日ですからという。すぐに私がそん時ここで頂いた事が『シルクロード』という事を頂きました。
 私はどういう事かはその意味が分かりません。けれどもまあ簡単に云うと大変むづかしい道、例えばあの西遊記のあの三蔵法師があの教典を運ばれた通のような事をいふらしいんですね。いわゆる絹の通なんです。柔らかい通なんです。私はこの事を頂いたが今日の御霊様とあなたの間にいうなら柔らかい柔らかい喜びの道が開けてくるという事じぁないでせうかね。いつも私は皆さんが玉串をあげらける。そして御祈念をなさっておらける時におしらせ頂くんです。
 昨日はここに座られておじいさんのお届けをされた途端に、その事をシルクロードと云う事を頂くです。私共と神様の間にもやはり、このシルクロードです。いうならば馬鹿程に素直なというとまあ普通では単純だなあとか、お人よしとかというふうに申しますけれども、おかげの道、ルートというのは確かにこういう柔らかい道なのです。それが容易いとは思はれないけれども、そういう心の状態ですなおになら、お先祖を尊ぶといったような心の状態。
 だから人を助ける事が出来るという事でもです。いわばそういうシルクロード的な道がその人の間に通わなければ本当の、助けるという事にならんじぁないか。御霊との間においても御霊様がいよいよ助かって頂く為には、いうなら遺族の者のいうならばやわらかい素直な心をもって向かう時に、そこをたどらせて頂けれる道が開けてくるんだというふうに思うんです。そしたら実は私は今日はここへ着かせて頂くあいだ、本当に親先生という方は世界一の先生、私はその世界一の信者を目指さして頂こうというような事を、くり返しくり返し車の中で思ふてここへ着かせて頂きましたら、どなたかテープを聞いておられた、そのテープから流れてくるのが、いうならば昨日の御理解なんです。いわゆるあの大坪の信心がナンバーワン、世界ナンバーワンというその声が流れてきてから、実はもうびっくりしましたというお届けをそん時されるんです。ああそれもやっぱりシルクロードだなぁと私は思いました。
 私と山本さんの間にいつもそういうやわらかい道が、いつも交流しておる。打てば響くように、その自分の実感しておる事と私との交流も感じておられる。助ける助かるという事においてもです。はあ本当に親のお話を頂けばそれこそ先祖は、家の根であると云われるその根を大切にせねばというなら御教えを受けた時に、ほんに素直にそうだとすぐにそれが実行出来ると云う心なのです。成る程御霊様も目には見えませんし、そんなにせんでんよかろう、年忌年忌にゃすりぁええけんといった人もあります。いわゆる素直に聞けない・受けられないのですね、それを素直に聞いたら、そうせずにはおれないという事になってくるのじぁないでせうか。そこにそう聞けば素直に聞けばそれをね、真心で受けられる。そうせずにおれない。そこに云うなら御霊との間にやわらかに、いうなら道が開かれるわけなんです。
 人を助けるというても助かるというても、助かる為にも先ず素直心がいる。そこには神様から見直し・聞き直しして頂かなければならん所も沢山あるけれども、神様が見直しよい神様が聞き直し良い、あの氏子の心根を思うた時に、おかげをやらずにはおれない心の状態が、神様の心の上にも動くのじぁないでせうか。
 それには井上先生じぁないけれども、初めて御理解がこうやってそのまま入ってくるというという、まあ白紙の心の状態で頂けるようになりましたという、その自分のね今までの少しばかりの知識とか、普通でいう常識的なものやらは、一ぺんこうかなぐり捨てておかんと、ここでは時々いうなら非常識な非道徳的なとまで、思われるような御理解が出てまいりますから、勿論それは非常識というものではありません。それは私に云わせると超常識であり、超道徳なのですから、それが超のつくような御理解を頂いても、それがすんなりとこちらの心の中に響いてこない、頂けない。頂くにも、すなお心・助けるにも、やわらかい、いわゆるシルクロードの道が開けてこなければ本当のおかげにはならないという事でございます。                  どうぞ